2023
Vol.05
黒崎彰と舩岳紘行
10月26日 - 12月17日
【開館日】
会期中の木・金・土・日曜日
【開催時間】
10:00 - 17:00(最終入館16:30)
【出陳作家】
黒崎彰 Akira KUROSAKI
舩岳紘行 Hiroyyuki FUNAOKA
黒崎彰「壁の女A」
黒崎彰「浄夜67」
舩岳紘行「密の発見」
シンボル的表現の根源
HOKUBU記念絵画館
舩岳紘行の表現の真意を理解するにはたくさんの本と出会う必要がある。描く作品のテーマは複雑でさまざまな側面があり、思想や概念を伝達する手段としての一面もあるからだ。であるからキラキラとした色彩や、明確な造形表現、物語の一場面という解釈だけでは、限定的な理解にとどまることになる。それは単なる娯楽のための絵画ではないのである。けれども彼の思想や概念の伝達を支える技術は本物だ。我々は彼のそういう目を信じるだけに、その作風の不気味さに苦しめられる。実際、舩岳の作品の不気味さは取り止めの無い想像力のために、じっと見つめても答えを与えぬ疎遠な性格を持っている。しかしながら誤解のないように言わねばならないが、彼の取り止めの無い想像力には確固とした支えがある。
舩岳は北海道に住み始めて、自然の中に身を置いた中で、事実として世界を大きな生き物として捉えるようになったのだという。自然の持つスケールが目に見えて変化しているのだから、自然と人間の関係性が大きく変化するのは当然といえよう。舩岳にとってそれはリアルな認識であり、現実の日常よりもはるかに身近な感覚的な認識なのだろう。この認識が彼の場合はあらゆる想像の鍵となっている。彼の精神的な生活と感覚的な生活とが強い想像力の磁性を持ち、目の前の現実よりも、見えるもの、形あるものとして働きかけて、独特に変容させたものだと思われる。
テーマからしてそうだから、内容を味わうとなると言わずもがなだ。画家の仕事とは目に始まり、目に終わるものだが、これに基づいて感受性の難問が生まれる。妙なことを言い出すようだが、思いがけない人間性の暗黒面を暴露するような性質があるからだ。例えば白樺の幹に目がついた表現は、心が不安になり、気味が悪いものだ。超自然的な現象は劇的なグロテスクの文脈に依存している。しかし、我々は人間を圧倒する脅威に対しても、自らが安全な立場にいて眺める分には興味を惹きつけられることになる。そして、その習慣は永遠の昔から人類に備わってきたものだといえる。
遺伝子レベルの記憶が現代を生きる人間の想像の中で視覚化されるものとなり得るのかはっきりとは分からないが、幾世代にわたる経験の蓄積が人間の深層心理を形成することは心理学の理論によって明らかにされている。舩岳は「超個人的な感覚を掘り下げながら人間の普遍的な無意識に触れることができた瞬間が何度かあった」と言っている。果たしてそのような主張を証明することが可能だろうか。しかし、無視できない話であるから、なお一層このことを頭に入れた上で、舩岳の絵を深く見ることが必要になる。
記憶とはユング流に言うと集団無意識だが、それと現実の関係には動じない人もいるのだろう。こうした人達から見ると芸術はさして毒にも薬にもならない代物なのかもしれない。しかし、芸術の記録を見ると古くから由来する感受性が人間の歴史を作ってきたといえる。例えば人間は「母なる存在」を求めている。誰もが直接的な利害の打算を超越した存在を必要としている。それは世界中に存在する地母神信仰などが証明しており、聖母マリアと観音菩薩の信仰にも共通点が見出されるのだと舩岳は主張する。人間は神の庇護に頼らねばならぬ。その代償として生命を投げ出すような約束事が殉教の思想にはあるのだが、内容的には矛盾する愛に満ちた神のイメージが現れて広まる必然性があったことは認めることが出来るだろう。そういう思想はそれぞれの地域だけで形成されるはずもなく、舩岳においてもアイヌの神話や、西洋の伝統など、両文化に共通する特色が結びつき、人間の本質的な芸術の衝動におもむくのだろう。
ところで、舩岳自身の想像でいうと、想像の行為の中で「山から魂が降ってくる」というイメージを導き出した後に、死者の魂が山に登って子孫を見守るという死生観を文献で知り、裏付けを得たということもあるようだ。想像とは基本的には想像力によって生まれるものだが、舩岳の想像力は自由奔放なだけではないようだ。その想像力は現実社会のさまざまなイメージとも融合する。舩岳の視点は複雑だ。そこではたらく知的な考え方、歴史上の意味、等々に、最も密接に結びつきながらリアルなイメージと融合している。たとえば、猪が女性的象徴で蛇が男性的象徴というようなイメージも前提とした文献が先ではなく、造形として表出された後に知ったものだという。それは、前述の「人間の普遍的な無意識に触れることができた瞬間」であり、生命の諸形態が人間の直系の子孫であるという事実とも繋がるのだろう。それは舩岳にとってはリアルなものを追求した結果として必然的に浮かび上がってくるものだという。
出来すぎた話かもしれないが、何故かそこに懐かしさを感じているのだと舩岳はいう。つまり彼が想像力を使うのには、しっかりとした記憶の土台を必要としているということだ。そして、古いものを下敷きにしながら、新しいやり方で新しい神話を主張している。空想と隣り合わせの世界は、奇怪な模様の怪物や、大空高く聳え立つ不気味な山々の峰など、そのままでも十分に邪悪なイメージとして受け止められるが、そこに「秘密の桃」や「食べられた記憶」などのタイトルを当てはめると、人間の加害性やその人間を脅かす闇の歴史を認めることができる。作家はここに作品を理解する鍵を与えているのだろう。
そうして言葉で直感して、タイトルで作品を考えてみると、そこには多様性があり、社会のあり方や、気の利いた風刺もある。しかし、最も鮮烈なのは生と死の象徴だろう。舩岳は宗教画の形式を通して生と死を表現していると思われるのだが、そこに個人を超越した万人に共通するテーマがある。光と影のコントラストは、生も死も区別できない人間の空しさだろうか。ともあれ目的に合うように、相反する状態を組み立て直して永遠のテーマを直視しているのだ。死は古代から続く美術のテーマだ。その死を、現代の人間をして認識することこそが舩岳紘行のテーマなのではないだろか。
舩岳の絵の、人間がゆらゆらした巨大な生物の犠牲になる場面は、生命の掟に切り込むメスのような考察だ。生きるためには食べなくてはいけないと言う問題は、あらゆる生命現象の根底にあるものだ。ただ、どう言葉で誤魔化しても、捕食は正義の執行人ではないし、生物の最も根強いエゴイズムだ。牛や豚は人間のために造られたとする宗教的な仮説は合理的な見解とは言えないだろう。舩岳は食べるという行為に強い興味を感じているのだという。「人間には何かに食べられてしまうという恐怖や、食べることへの罪悪感がある」と彼は主張する。
私たちが生きている世界はどこかそういう闇を覆い隠そうとするものだが、そんな空気の中で人の目を奪い、窮屈な世の中で束の間の自由を与えてくれるのが舩岳の絵なのかもしれない。そこに絵画の存在意義があるのだと彼はいっている。もし舩岳の仕事が一時的にせよ現実の暗い気分を和らげてくるとしたら、その結果と真正面から衝突するのが、外界に対する不安と結びついた黒崎彰の抽象的な絵画なのかもしれない。
舩岳の絵はたとえそのグロテスクなイメージが高尚な趣味とは重ならなくても、面白いと感じさせることには成功している。そして功能的な見通しの上では明らかに危機感を生み出す傾向がある。そして観る者の感受性を刺激して、野生的な関心を一層敏感にさせるようだ。おそらく現実世界からは得られない人間の心の奥底の混沌がそこにはあるのだろう。この世界が恐怖に満ちていればいるほど芸術は抽象的になるという画家もいるが、幕末の不穏な空気の中で幻想奇怪な描写を追求した絵師のように、人間の闇を見て見ぬふりをしなければ、絵画はリアルなあるべき姿になり、暗喩で持ってしか語れない法則を逆に利用して、人間の真実を語るようになるのかもしれない。
古くから伝来する芸術を享受することで感受性の自由は広がっていくものだ。この自由が許される地平というよりも方向は、当然社会の中で評価され位置づけられることで成立する。我が国にも呪術を現実主義的に信じた時代はあり、黒崎彰の闇もその超自然的な存在を意識したものだ。そして自然を知覚し、記憶に保存し、様式として投影したやまと絵は構図の面で舩岳に影響を与えている。一方で幕末の浮世絵のイメージはあくまで近代化の方式によりリアリスティックになり生命的となった。その意味で舩岳の感受性を享受する自由もあり得るのだろう。しかし、舩岳も黒崎も、いずれも自然科学が運命的に培ってきたところの理性が、闇に背地する矛盾に耐えきれなくなった反動として現れたといえる。このような矛盾の上に描き出された闇が白日の夢に過ぎないものだとしても、人間の闇を形象化した表現は、構図の意識を外部から取り入れ膨らませた舩岳の関心と同じように、勢いを持ってこれからも積み重ねられていくのだろう。
それにより足元を支えてくれているはずの地盤が不意に崩れていくのを黙従するような気持ちが起こるのも不思議ではない。しかし、今我々が立っているはずの世界、その平和はいつ闇に飲み込まれるかもしれないものでもある。繰り返すようだが、それを単に絵空事とすることは舩岳の作品の基本的な理解を見失うことになる。そして、それを美的に、あるいは形式的に理解する限り、重要なテーマに近づくことはできないのだ。本展は人間の中に見られる闇への衝動に注目した舩岳紘行と黒崎彰の展示だ。