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HOKUBU記念絵画館

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絵画館の概要

HOKUBU記念絵画館は、北武グループ会長であり、若くして多方面で活躍した実業家、小西政秀が精力的に収集した絵画を一般に公開するために作った施設です。

小西は企業経営に心血を注いだ人物ですが、忙しい毎日の中で、彼の数少ない趣味の一つが美術との触れ合いでした。それは、自らの目に頼った好き嫌いでの収集と鑑賞にはじまり、やがて、美術館建設という方針が固まり、収集意欲が高まると、主な対象が日本の具象洋画と木版画に絞られました。しかしそれはコンセプトにのっとった、コレクション形成というよりも、彼の感性に合ったもの、彼の目で観て美しさ・厳しさを受けるものを何となく選んだものでした。

そして、美術に親しむ喜びを分かち合い、静かに作品を眺めるための場所を作りたいという気持ちが先立ち、平成8年に絵画館が開設をはたしました。基本は小西コレクションが中核を占めますが、開設してからは、美術史や芸術学的な観点からもコレクションは充実されました。企業の社会還元の一端としてスタートした絵画館は、平成22年に北武グループから財団へと運営する組織を変えました。そして作品の集積とその公開という根源的な趣旨を担いながら、豊かな文化提供の場としてさらなる発展に期しています。

​版画家とコレクターに捧ぐ

北武グループには、ビジネスには直結しない、文化的な方面に力を入れている事業がある。札幌市豊平区旭町にあるHOKUBU記念絵画館だ。地下鉄学園前駅から徒歩六~八分で着く。この絵画館は、1996(平成8)年から運営しているのだという。いうまでもなく採算性のない事業である。これを地域社会への貢献とみるべきなのか、芸術文化の振興とみるべきなのか。小西政秀は会社の役員に頭を下げて承諾を得たのだという。

オーナーは、やや変わり者との風説もある。しかし、彼は社会とのズレで、自らの評判を損なうタイプではない。奇人というには実際的で、変人にしては抜け目が無い。ともすると、並んでいる人たちを押しのけてでもタクシーに乗る確信的なタイプだ。世間から後ろ指を指されるような場合でも、ある程度計算して、それを実行する主義なのである。

一部のマニアの間では、彼は詩人としても知られるが、このオーナーが、唯一、害のない趣味を、優れた美術品を他者と分かち合うという意により、公にすることに踏み切ったという見方が、おそらく本当のところかもしれない。

「人生は大いなる自己満足」と自らに言い聞かせ、既存のビルにつぎ足す形で設計がなされた。絵画館が完成した折には「これなら、まあ、恥ずかしくないだろう」と呟いたという。そこには、彼の野心が、会社を犠牲にする類ではなかったということがうかがえる。あまりにも健康的で、耳にこだまする音量のポエムには、いつも大汗をかかされる社員も、この控え目な絵画館には、ある種の安堵を見出したのだろう。人情は厚いが、やや率直に、引き締まった感想をもらす幹部も、そこを「聖域」と呼ぶのであった。

コレクションは油絵・版画・水彩など五千点以上に及ぶ。特に木版画はその歴史的な変遷を辿る質と量を有している。浮世絵では、歌麿や歌川派の絵師たち、創作版画と呼ばれる昭和の版画黄金期を支えた作家には、棟方志功や斉藤清など、また、現代版画の旗手として、国際展での活躍が目覚ましい萩原英雄や黒崎彰など、代表的な木版画家を網羅している。

さて、この絵画館、西洋式の柱と、ステンドグラスが、正面にそびえる、地上三階建てなのだが、足を踏み入れると、室内は、その外観以上に広く、奥行きがある。受付で半券を貰い、風除室を抜け、スリッパに履き替える。これは、他の美術館とは一風異なる、この絵画館ならではの光景である。中に入ると、随分と静かだ。スリッパで、絨毯の上をペタペタ歩く音だけが響く。この折は加藤八洲の展覧会を開催中であった。

加藤八洲は1907(明治40)年東京に生まれた。京都工芸繊維大学でデザインを学び、社会人となって、日本画と、イラスト画を習った。画家を目指して、東京に舞い戻ってから平塚運一らに出会い、木版画家として再出発をした。版画が芸術のジャンルとして浸透していった時代、彼は制約の多い技法の中で、簡略的な造形に目を向け、そこに魅力を見出すと同時に、写すという基本的な要素も追求していった。対象の把握と、イメージヘの回帰が繰り返される画風は、リアリズムを基本に和と洋の型を注ぎ込んだもので、八洲の名のとおり、彼は発意に身を委ね、その変化を自由に楽しんだ。

最も彼が親しんだ題材は、人里離れた教会や古い町並みだ。重厚な石畳や、水面の小波は、スケッチから下絵を起こす際を大切にしたという、この時期の彼が、生の感動を消化し、再構成することが出来たということを物語っている。

やがて、古典的な構図を崩すようになった彼は、ざらりとした、マチエールを重視した表現を好むようになる。そしてディテールを削ぎ落とし、表現する内容を突き詰めた彼の作品は、アスファルトを押しのけて咲く蒲公英のように強いメッセージを持ち始める。工場から吐き出される煙が、流される幸福の形が変化した時代、彼の魂は、どこまでも高い空を求めて世界へと飛び立った。その空に向かって、まっすぐに伸びる単純な美しさ。それは、彼が発見した自然と人間の本来の姿たった。「YASU KATO」という、横文字にすると端正なイニシャルは、彼が我々に向けたサインでもある。

このコレクションは企業家・小西政秀が、少年の頃の、ふとしたきっかけで絵に興味を覚え、サラリーマン時代は財布をはたいて、やがて経営者となってからは、それを心のよりどころとして、コツコツと三十年以上かけて集めたものである。もとより、自らの満足のために始めたコレクションであり、自分の眼で選んだものばかりだというが、眼とは、ある一定の見解であり、視点であり、着眼するポイントのことだ。その上で、彼は感性という言葉を主張する。確かに、原精一や、小野末、香月泰男など、価格という、骨の髄まで染み込んだ彼の感性を多めに見積もってみても、そこには、ある一定の性格が認められるのだ。

彼が愛するのは、生まれ故郷の樺太の、深い緑のような、たくましい造形であり、それは、加藤八洲という作家にも見られる共通の部分でもある。そして、それは、ロマンチックを越えて、胸の奥に響くような、骨太の気質であるのだが・・・しかし、筆者は、あくまで、芸術の分野においては門外漢であるから、聞きかじりで、文学的な情熱を沸騰させることのないよう、慎まねばならない。現実を知り、真実を捉え、なおも力強く生きてきたコレクターも、コレクションも、風土により育まれてきたものなのかもしれない。

(寄稿:M・K)

HOKUBU記念絵画館

HOKUBU Memorial Picture Museum

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